Veritas lux mea.

ルカさん沼にはまってから色々と調べてきたのですが、ツイッターだと情報をまとめておくには不便なので、ここにメモすることにしました。

クロアチア語の教科書と辞典について

7月に沼にはまってから、クロアチア語のニュースを読んだり、ヴァトレニの皆のインスタ投稿やインタビューを見るようになって、クロアチア語を理解できるようになりたいと思い勉強を始めた。しかし勉強するために情報収集を始めると、日本および英語圏、それどころかヨーロッパにおいてさえ、クロアチア語は想像以上にマイナー言語とみなされている印象を持った。というのも、学習用のテキストや辞典が非常に少ないのである。学習者が最初にぶつかる壁は学習用リソースの少なさであると言って良い。そのため、自分が収集し得た情報をここにまとめておこうと考えた。

 

 

 

1.クロアチア語とは何か。セルビア語と同じなのか。

 現在「クロアチア語」と呼ばれている言語は、かつて旧ユーゴスラビア公用語であった「セルビアクロアチア語(Serbo-Croatian)」から独立して、新たにクロアチア公用語として標準化された言語である(Alexander 2006, p. xvii, 387)。旧ユーゴスラビアが崩壊し、各地域が独立を宣言していく中で、それに対応してそれぞれの地域で使用されている言語が、ボスニア語、クロアチア語セルビア語、そしてモンテネグロ語、というように独立言語であると主張されるようになった。そして、それぞれの国内で独自に「標準語(公用語)」が整備されていった(loc. cit.)。

 元々は一つの言語として扱われていたということから察せられるとおり、ボスニア語、クロアチア語セルビア語の核となる文法規則や語彙は共通しており、それらの話者同士でコミュニケーション可能である(何しろ元々一つの言語として扱われていたのだから)。そうだとすると逆に、これらは別言語ではないのではないか、と思われるかもしれないが、これらが別の言語であるのかそうでないのかという問題への答えは、「一体何をもって独立言語とみなすのか」という言語学上の問題をどう考えるかに大きく依存するため、一言で片付けることができない。しかし少なくとも、それらが別言語であるという主張が生じるきっかけになったのは政治的・民族的理由であると言って良いだろう。英語話者はかつての「セルビアクロアチア語」に属していた言語グループを、ボスニア語・クロアチア語セルビア語のイニシャルを取って“BCS”と呼んでいる。

 旧ユーゴスラビア公用語セルビアクロアチア語」には大きく分けて3つの方言が存在し、それらは英語の"what"(何)に対応する語が、kajであるか、čaであるか、štoであるかよって分類されている(Alexander 2006, p. xviii, 388. Cf. Hammond 2005, p. 9)。これらの方言はwhatに相当する語にちなんで、Kajkavian(カイ方言)、Čakavian(チャ方言)、Štokavian(シュト方言)と呼ばれる。クロアチア国内ではこれらのいずれもが話されているが、公用語としての「クロアチア語」はŠtokavian(シュト方言)を元に標準化されていった(Alexander 2006, p. xviii, 388)。同じく、公用語としての「セルビア語」「ボスニア語」もこのŠtokavian(シュト方言)を元に標準化されたものである(loc. cit.)。

 さらにŠtokavian(シュト方言)は、祖語である古スラヴ語の長母音ě(ヤト)の発音の違いからIkavian(イ方言)、Ijekavian(イェ方言)、Ekavian(エ方言)という3つの方言に分類される(Alexander 2006, p. xviii, 391)。標準形の「クロアチア語」と「ボスニア語」はIjekavian(イェ方言)の発音と綴りを採用している(loc. cit.)。他方で標準形の「セルビア語」は発音と綴りに関してEkavian(エ方言)を採用しているため(loc. cit.)、例えば「素敵な/美しい」を意味する語がセルビア語ではlep、クロアチア語ではlijepであるなどの違いが存在する。

 また、表記方法に関してはクロアチア語ボスニア語はラテン文字だけを用いるのに対し、セルビア語はキリル文字ラテン文字の両方を用いる。

 以上のように、セルビア語、クロアチア語ボスニア語とは、かつては一つの言語として扱われていたものがそれぞれの国の独立と共に独立言語としての地位を主張したものであり、また公用語の標準化の際に基礎となった方言も同じであるため、それらの核となる基本的な文法や語彙は共通している。それらの主な違いは、標準語として認められている綴りや表記方法である。したがって、学習者はセルビア語の教科書をクロアチア語の教科書として使うことも可能である。

 

2.クロアチア語の教科書の紹介

 冒頭で述べたように、クロアチア語の教科書は非常に少ない。以下では、手に取りやすい教科書をいくつか挙げてみる。

 

中島由美,野町素己,『ニューエクスプレス セルビア語・クロアチア語』,白水社,2010.

ニューエクスプレス セルビア語・クロアチア語

ニューエクスプレス セルビア語・クロアチア語

 

 日本語で読めるほとんど唯一の初学者向けテキストであり、必需品。セルビア語・クロアチア語がどのような言語なのか、おおまかなイメージをつかむことができる。説明事項は初学者向けにかなり絞られている。綴りは標準セルビア語(エ方言)を採用しているので、その点に注意する必要がある。

 

Vladislava Ribnikar, David Norris, Complete Croatian Beginner to Intermediate Course: Learn to read, write, speak and understand a new language, Teach Yourself, 2014.

Complete Croatian Beginner to Intermediate Course: Learn to read, write, speak and understand a new language (Teach Yourself)

Complete Croatian Beginner to Intermediate Course: Learn to read, write, speak and understand a new language (Teach Yourself)

 

 初心者向けのクロアチア語の教科書で、会話表現に重点を置いている。各章ではテーマごとにまず会話が提示され、そのあとで表現や文法事項の簡単な解説がなされる。説明事項はやはり初学者向けに絞られているが、『ニューエクスプレス』より情報量が多く、詳細。ニューエクスプレスで一通りの文法を学んでから使うのが良いと思う。なおKindle版(500円ほど)もあるので、それで少し中身を見て難易度を確認してみると良いだろう。音声はTeach Yourselfシリーズのサイトでユーザー登録すると無料でダウンロードすることができる。

 

Ronelle Alexander, Bosnian Croatian Serbian: A Grammar with Sociolinguistic Commentary, Wisconsin University Press, 2006.

Bosnian, Croatian, Serbian, a Grammar: With Sociolinguistic Commentary

Bosnian, Croatian, Serbian, a Grammar: With Sociolinguistic Commentary

  • 作者: Ronelle Alexander
  • 出版社/メーカー: Univ of Wisconsin Pr
  • 発売日: 2006/06/30
  • メディア: ペーパーバック
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 この本は、先に挙げた『ニューエクスプレス』の中で、より詳しく勉強したい人向けに薦められていた。旧ユーゴスラビア解体以後、ボスニア語、クロアチア語セルビア語を総合的に扱った初めての文法書。著者のR. Alexander氏はカリフォルニア大学バークレー校のスラヴ語スラヴ文学教授である。手に入りやすく、また信頼性の高い文法書としては、現状、決定版であると言って良いだろう。3言語それぞれのバリエーションにも言及がなされつつ、文法が詳細かつ網羅的に解説されている。例文には英語の対訳が付されている。この本は、初学者には情報量が多すぎるかもしれないので、最初にこの本を読んで学ぶというよりは、文法事典として使うのが良いかもしれない。

 同じ著者(と共著者)が、学習者向けに作った教科書もある。

Ronelle Alexander, Ellen Elias-Bursać, Bosnian, Croatian, Serbian, a Textbook: With Exercises and Basic Grammar, 2nd edition, Wisconsin University Press, 2010.

Bosnian, Croatian, Serbian, a Textbook: With Exercises and Basic Grammar

Bosnian, Croatian, Serbian, a Textbook: With Exercises and Basic Grammar

 

 3言語で会話文を提示し、文法や語彙をその都度解説する形式で書かれている。より詳細な文法解説のために、Bosnian Croatian Serbian: A Grammarの関連ページへの参照が振られている。先に挙げたComplete Croatian Beginner to Intermediate Courseとは異なり、会話文だけでなく、読み物も収録されている。

 

Lila Hammond, Serbian: An Essential Grammar, Routledge, 2005.

Serbian: An Essential Grammar (Routledge Essential Grammars)

Serbian: An Essential Grammar (Routledge Essential Grammars)

 

 セルビア語(クロアチア語)の文法をまとまった形で学ぶことができる文法書。しかも情報量はBosnian Croatian Serbian: a Grammarよりは絞られているため、見やすく、初学者にもやさしい。学習用にはこちらの方が向いている気がする。こちらも例文に英語の対訳がついている。

 この本は、なんとインターネットにPDFデータが丸ごと落ちている(!)。買う前に中身を少し見てみても良いかもしれない。

 

 このほか、古典的な文法書として、以下のものが存在する。

William Richard Morfill, Simplified Grammar of the Serbian language, Trübner, 1887. 

Trubner's Collection of Simplified grammars of the principal Asiatic and European languages, XVI. Serbian language

Trubner's Collection of Simplified grammars of the principal Asiatic and European languages, XVI. Serbian language

 

  著作権切れのため、再録版が色々な出版社から出ている。評判は悪くなく、今でもこれを使って学習している人はいるようである。ただ個人的には、古い文法書はなるべく避けた方が良いと考えているため(これだけ古いと表記法等が変わってしまっていることがある)、使用していない。これもインターネットにPDFが落ちているので、少し中身を見てみても良いかもしれない。

 

 結局どれを買えばいいのか、ということになるが、まずは

・中島由美,野町素己,『ニューエクスプレス セルビア語・クロアチア語』,白水社,2010.

を買って、一通りの勉強をするのが良い。これで物足りなくなったら、

・Vladislava Ribnikar, David Norris, Complete Croatian Beginner to Intermediate Course: Learn to read, write, speak and understand a new language, Teach Yourself, 2014.

を買うと良いと思う。

文法を包括的に学ぶには、

・Ronelle Alexander, Bosnian Croatian Serbian: A Grammar with Sociolinguistic Commentary, Wisconsin University Press, 2006.

 を買うのが良い。

 

3.クロアチア語の辞典(辞書)の紹介

 日本語で読めて、かつ実用に足るクロアチア語辞典は私が調べた限り存在しない。東京大学総合文化研究科のサイトに辞典案内が掲載されているので、まずはこちらを参照されたい。

www.c.u-tokyo.ac.jp

 この中で、クロアチアで出版されたというŽeljko Bujas, Croatian-English Dictionary (Zagreb: Globus, 2001)は、私が調べた限り容易には入手できそうになかった。

 この辞典案内で一番に挙げられているMorton Benson, Serbo­Croatian-English Dictionary (Cambridge University Press, 1990)は、アマゾンのマーケットプレイスなどで海外の業者から購入することができる。6万語を収録している、800頁以上ある本格的な辞典。

Serbo-Croatian-English Dictionary

Serbo-Croatian-English Dictionary

 

 

 私の場合、まずは使いやすそうなMorton Benson, Standard English-SerboCroatian, SerboCroatian-English Dictionary (Cambridge University Press, 1998)を購入することにした。こちらは比較的安価で、アマゾンやブックデポジトリーなどで購入することができる。

Standard English-SerboCroatian, SerboCroatian-English Dictionary: A Dictionary of Bosnian, Croatian, and Serbian Standards

Standard English-SerboCroatian, SerboCroatian-English Dictionary: A Dictionary of Bosnian, Croatian, and Serbian Standards

 

 英語からクロアチア語を調べることができるのはこの辞書の大きな利点である。しかし難点がいくつかあり、とくに名詞の性が記載されていないのは、残念ながら初学者にとっては致命的であろう。

 その後、Morton Benson, Serbo­Croatian-English Dictionary (Cambridge University Press, 1990)の方も買ってみたが、やはり名詞の性に関しては、すべての名詞の項目には逐一書かれておらず、母音で終わる男性名詞、子音で終わる女性名詞、単数形と複数形で性が変わる名詞などのイレギュラーな場合にだけ記載されていた。慣れてきたらそれで良いと思うが、初学者にはあまり親切ではない。

 

 そこでさらに辞書を探したところ、外国語学習者向けの辞書を多く出版しているドイツのLangenscheidt社からLangenscheidt Taschenwörterbuch Kroatischというポケット版の辞書が出版されているのを発見し、購入することにした(フルサイズの辞典は出版されていないようだった)。

Langenscheidt Taschenwoerterbuch Kroatisch - Buch mit online-Anbindung: Kroatisch-Deutsch/Deutsch-Kroatisch

Langenscheidt Taschenwoerterbuch Kroatisch - Buch mit online-Anbindung: Kroatisch-Deutsch/Deutsch-Kroatisch

 

  クロアチア語−ドイツ語の辞書であるためややハードルは高く、またポケット版であるため掲載語数は絞られているものの、見やすく、また名詞の性もすべての名詞の項目で記載されている。

 

 さて以上のことからわかるように、クロアチア語を学ぶに際して、英語かその他何らかのヨーロッパ言語がある程度使えないと、そもそも学習用のリソースにアクセスすることが相当難しくなる。このことは日本国内でクロアチア語を学ぶことのハードルをかなり上げている。昨年末、ザグレブ大学がクロアチア語学習者向けの無料のオンラインコースを提供し始めたが、これも英語またはスペイン語でのみ受講可能である。

croaticum.ffzg.unizg.hr 受講は無料だが、FacebookGoogleのアカウントを持っていることが条件になる。登録すれば、クロアチア語のダイアログをストリーミングで聞いてクイズに答えるなどの学習モジュールを利用することができる。現状、クロアチア語を学ぶにはこれが一番簡便な方法かもしれない。

 

参考文献

Ronelle Alexander, Bosnian Croatian Serbian: A Grammar with Sociolinguistic Commentary, Wisconsin University Press, 2006.

Lila Hammond, Serbian: An Essential Grammar, Routledge, 2005.